ヤマモトレーシング物語|いよいよチャンピオンに

ヤマモトレーシング物語|いよいよチャンピオンに

《RVFの最大の武器は軽さだった》

1990年は第1戦からワークスマシンRVFを貸与されたが……その構成は1990年型エンジンに1989年型シャーシという準ワークス仕様。

本家のワークス2台は倒立フォークを採用していたが、こちらは正立フォークのままだった。それでもRC30とは比べものにならないほど高いポテンシャルを備えていた。

その違いを、岩橋選手に聞いてみよう。

「いちばんの違いは車重です。たとえば1988年のRC30は、RVFに比べると30kg重かったんです」

だからブレーキングやちょっとした加速では、どうしてもRVFに先を行かれた。

「それが15kgに縮まったのが1989年のRC30。重量差が出にくいコースレイアウトや雨の日なら、ワークスマシンと勝負できるところまで来ました」

1990年 全日本TT-F1チャンピオン

そして、重量ハンデが解消された1990年は、念願だったTT-F1チャンピオンに輝いた。とはいえ、順風満帆だったわけではない。

初戦の2&4は優勝、続いて鈴鹿2位→鈴鹿2位→筑波1位→菅生2位と全戦で表彰台に上って、前半戦のランキングはしっかりと1位をキープしたものの、後半戦は開発スピードの速いワークスマシン勢に押されて、厳しい戦いを強いられたのだ。

印象的だったのは後半戦最初の鈴鹿だった。

めったに転ばないことで有名だった岩橋選手は、菅生のスーパーバイク世界選手権で久しぶりに乗ったRC30の「重さ」にリズムを崩してしまい、転倒→鎖骨を折ってしまう。その怪我を抱えたまま挑んだ全日本TT-F1鈴鹿では、予選中にギヤ抜けで転倒し、腎臓を破損してしまったのだ。

それでも痛み止めを打って、スターティンググリッドに並んだら、今度はエンジンが掛からず、走り始めたときにはすでに26秒遅れ。最後尾はもう東コースを駆け抜けようとしていた。

しかし、岩橋選手はあきらめない。無心でベストラインをトレースし、見えないトップを追いかけ続けたら……最後の最後で3位に入賞。実に36台抜きの快挙だった!

1990年 全日本TT-F1チャンピオン

全日本TT-F1チャンピオンを称える雑誌記事(岩橋健一郎さんが作ったスクラップブックから抜粋・掲載誌不明)

次戦の菅生は3位。最終戦の筑波では、ワークスRVFを駆るランキング2位の宮崎祥司(*18)選手と、チャンピオンをかけての一騎打ちとなった。今シーズンの2人の順位は、菅生のスーパーバイク世界選手権も含めると、4勝4敗。この点でも決着がつく。

(*18)宮崎祥司選手=スズキのテストライダーからヨシムラを経てチームブルーフォックス入り。1988年&1991年全日本TT-F1チャンピオンに輝く。ラジコンカーのワークスドライバーとしても有名。

しかし、宮崎選手は予選中の転倒、骨折で決勝をキャンセル。戦わずして岩橋選手のチャンピオンが決まった。

その岩橋選手も、決勝で3位争いをしているときに転倒し、岩橋選手の全戦ポイント獲得、そしてRVFの全戦優勝の夢はかなわなかった。

レース後、入院している宮崎選手を訪ねたら、こんな言葉を掛けられてうれしかったと、岩橋選手は当時を振り返る。

「今日以上にいいレースをしてきたからチャンピオンになれたんだ。誇りを持て!」

バイク雑誌のインタビューに対して、宮崎選手はこう答えている。

「あの鈴鹿(36台抜きのレース)のトラブルを自力で克服した岩橋選手は素晴らしい。チャンピオンに値する走りでした」

1990年 全日本TT-F1

岩橋健一郎 B.V.D. YAMAMOTO RACING(RVF750)

Round1/鈴鹿 予選2位 決勝1位

Round3/鈴鹿 予選2位 決勝2位

Round7/鈴鹿 予選2位 決勝2位

Round8/筑波 予選2位 決勝1位

Round9/菅生 予選4位 決勝2位

Round13/鈴鹿 予選3位 決勝3位

Round15/菅生 予選8位 決勝3位

Round16/筑波 予選6位 決勝 リタイヤ

1990年 鈴鹿8耐山本英人もチャンピオン獲得はうれしかったのだが、物足りなさを覚えていたのも事実。

なにせ借り物のマシンだから、手元に図面があるわけじゃない。それは、好みに合わない部分を作り変えたくても、手が出せないことを意味する。

モノづくりを生業とする山本英人にとっては、それがたまらなく不満だったのだ。

 

《F1終幕で、新たなカテゴリーへ》

翌1991年シーズンは、岩橋選手が世界の頂点を目指してNSR500にスイッチすることを選び、山本英人はRVFを返却して、再びRC30で全日本TT-F1を戦うことを選んだ。

当時のレース界の潮流は、次第に「スーパーバイク」へと傾き始め、全日本TT-F1は1993年で終幕。スーパーバイクは改造範囲が狭く、知恵と工夫を活かす余地も少ないことから、山本英人の興味は徐々に失われていった。

一方で新ブランドSpec-Aを1993年に立ち上げ、市販車向けのパーツ作りや燃料噴射の先行開発にエネルギーを注いだ。それ以降は、面白そうなレースにのみ、選んで参戦している。

 

→「ヤマモトレーシング物語|スポンサーと共に」 に続く

→「ヤマモトレーシング物語|はじめに」へ戻る

→「開発ストーリー|クロスミッション

→「開発ストーリー|Φ46スロットルボディ

→「開発ストーリー|Spec-A

TOPへ