ヤマモトレーシング物語|スポンサーと共に

ヤマモトレーシング物語|スポンサーと共に

スポンサー B.V.D.

↑1990年 東京モーターサイクルショー

《すべてが変わった2年間》

チャンピオン獲得を支えてくれたスポンサーについても聞いてみよう。

1989~1990年のメインスポンサー『.V.D.』(富士紡績)とは、どういう経緯でタッグを組んだのだろうか?

「1988年にスポンサードしていたライダーを、岩橋がビュッと抜いていったのが担当者の目に留まったとかで……向こうからスポンサードしたいって連絡があんたんや」

当時、20歳以下の「B.V.D.ブランド認知率」が50%を下回っていたことから、若者へのアピールの場として、富士紡績(現フジボウアパレル)はモータースポーツに着目。1988年にテスト参入し、1989年から本格的に取り組むパートナーとして、若く伸び盛りな岩橋選手&ヤマモトレーシングに白羽の矢を立てた。

MFJ誌 B.V.D.インタビュー記事

当時のMFJ会員誌に載ったインタビュー記事(上写真)から、富士紡績の担当者のコメントを拾ってみよう。

「正直な話、以前までは“2輪といえば暴走族”のイメージを持っていました。ところが、いざ2輪に接してみると、これが大きな誤りだと知らされるわけです。ディスコで遊んだりトレンドを追いかける若者より、ずっとピュアで素朴で少年らしい若者が、サーキットにはたくさんいる。それに気付いたとき、私は何とか役に立ちたいと思いました」

 

「社内での偏見を、今は受けて立とうじゃないか、との心境です。そのひとつとして、バイク雑誌はもちろん、ファッション雑誌などの広告、CMも2輪を全面に押し出していきます」

これだけの熱意を引き出すとともに、受け止めたのが、岩橋選手と山本英人だった。

1990年 プレス発表会

しかし、チーム運営に新たな要素が加わって、山本英人のモノづくりの時間はさらに奪われた。たとえば、イベントに参加したり、マシン展示に協力したり、プレス発表会を催したり。

チーム全員の身だしなみも整えなければならないし、テントやピットもきれいにしておかなければいけない。ブランドを背負った途端に、やることが一気に増えたのだ。

必然的に出ていくお金も桁違いに増えた。だから「契約金はまったく残らなかった」と山本英人は振り返る。スポンサードを受けてレースを戦い、それで会社を経営していくためには、モノづくりとはまた違った能力が必要になるのだ。

1991~1992年スポンサー ケイパ

2年契約の最終年にTT-F1チャンピオンに輝き、岩橋選手がチームを離れたことで、富士紡績との関係はハッピーエンド。代わって、チームにシューズを提供してくれていた『Kaepa(ケイパ)が名乗りを上げ、1991-1992年のメインスポンサーを務めてくれた。

華々しく、輝かしい時代だったが、山本英人が本当に望んでいたのは……自分で考えて、作って、勝つこと。そのことに気付かせてくれた4年間でもあった。

1991~1992年スポンサー Kaepa

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