ヤマモトレーシング物語|CBで8耐を沸かす

ヤマモトレーシング物語|CBで8耐を沸かす

《NK1から鈴鹿8耐へ》

「何か面白いレースはできませんかね?」

みんなでお昼ご飯を食べていたときに、鈴鹿サーキットのスタッフがふと、そんな言葉をつぶやいた。

同席していたのは、TT-F1を共に戦ったプライベートチームの社長さんたちばかり。自分で好きなように作ったバイクで戦いたいという気持ちは、みんな一緒だった。

こうして1994年に始まったのが鈴鹿NK1である。

CB1300SF(1996 S-NK)

山本英人はホンダCB1000SF(*21)で参戦。3気筒エンジンに興味を持ち、トライアンフ・トライデント900(*22)でも挑んだ。

(*21)CB1000SF=水冷4スト並列4気筒・998cc・93ps・1992-1997年

(*22)トライデント900=水冷4スト並列3気筒・885cc・100ps・1991-1998年

当初、このレースは見るほうもやるほうも面白かったのだが、各チームが協力して4メーカーのバイクをエントリーさせようとすると、ベースマシンのポテンシャル差が大き過ぎて、勝負事としての興味はだんだん失われていった。

半面、市販車ベースの改造マシンで鈴鹿8耐にエントリーできる道が開かれたのは大きな成果だった。その門戸はリッタースポーツにまで広げられ、1998年には8耐決勝を走る64台中、Xフォーミュラ(CBR900RRやYZF-R1、Ninja ZX-9Rなど)が13台、NK1(ZRX1100など)が2台を占める(合計23.4%)までになる。

その後も市販車ベースの参戦が増えていくにつれて、山本英人のモノづくり魂にも火が付いた。2003年の鈴鹿8耐にホンダCB1300SF(*23)でエントリーすることに決めたのだ。

(*23)CB1300SF=水冷4スト並列4気筒・1284cc・100ps・2003年~

実は同年、ホンダの市販車開発を担う朝霞研究所のスタッフもCB1300SFでの8耐参戦を計画していた。その中心人物は山本英人と旧知の間柄。まさしく以心伝心といえよう。

しかし、2台のCB1300SFの作戦はまったく違った。

人・モノ・金が限られるヤマモトレーシングは、ハンドリングで勝負することにしたのだ。エンジンパワーを上げようと思ったら膨大な資金が必要になるし、掛けた費用に見合うほど簡単にはパワーが上がらないからだ。

実際にCBを走らせてみると、フレームは剛性バランスに優れていて軽く、前途は明るかった。しかし、エンジンを擦ってしまう(バンク角が足りない)ことに悩まされた。

2003年鈴鹿8耐 CB1300SF

↑CB1300SF(2003年鈴鹿8耐仕様)

そこで、試行錯誤を繰り返したが、予選突破の壁は厚かった。その原因はのちに判明する。

2004年鈴鹿8耐

↑CB1300SF(2004年鈴鹿8耐仕様)

翌2004年の再チャレンジでは、どうしてもタイムが伸び悩んで、参戦を断念。

2005年鈴鹿8耐

↑CB1300SF(2005年鈴鹿8耐仕様)

結局はエンジンを上方+前方+右側に移動。これに合わせてダウンチューブも詰めて上げ、バンク角を稼いだ。さらにヘッドパイプとメインフレーム、ダウンチューブの裏側に補強を入れ、フレームとの剛性バランスに配慮したスイングアームを製作。2本サスに見切りをつけ、リア1本サス仕様として、2005年鈴鹿8耐にエントリーした。

すると、どうだろう。あれほど苦労していたのが嘘のように、あっさりとタイムが出たのだ。

「アクセルが1割も開かなかったところで、3割も4割も開くんや。だから次のコーナーまで行くのが、ものすごく速い。直線は遅いんやで。でも立ち上がりが速いから、順位が下のほうの1000ccは抜かせるところまでいったわ」

2005年鈴鹿8耐

↑2005年 鈴鹿8耐

この年、スターティンググリッドは70台中の45位。決勝は37位。かつてCB-FやVF、SRレーサーでオリジナルフレームを作ってきたノウハウは、いまなお第一級ということが証明された。

と同時に、「レースはコーナーとコーナーの間の加速競争。だから、ライダーがアクセルを開けやすく、中間加速に優れたエンジンを作る」という山本イズムが光った戦いでもあった。

この8耐チャレンジで生まれたパーツは、いまだに高い人気を誇る。

 

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