ヤマモトレーシング物語|はじめに
《ワークスイーターの素顔は意外にも…》
1980年代後半のバイク雑誌をめくると、頻繁に取り上げられているのが『ヤマモトレーシング』です。そこにはいつも「ワークスイーター」の文字が並んでいました。
全日本TT-F1(*1)で初優勝したときには「大阪の改造屋魂がついにワークスを食ったゾ」という派手な見出しが誌面を飾ったほどです。
(*1)全日本TT-F1=4スト750cc以下(2ストは500cc以下)の市販車をベースにしたレース。1984~1993年開催。改造範囲が広く、オリジナルフレームへの換装やサスペンションの構造変更も認められていた。
元々はバイク屋のオヤジさんだった山本英人さん(ヤマモトレーシング代表)が試行錯誤しながら仕上げた「プライベートチームのマシン」が、その10倍以上の資金と膨大なスタッフをつぎ込んだ「バイクメーカーのワークスマシン」を1台、そしてまた1台と抜いていくのですから、誰だって応援したくなります。
しかも、自社商品の宣伝のために参戦するプライベートチームが多かった中で、山本さんは「自分のモノづくりがどこまで通用するのか?」を見たくて……純粋に競争がしたくて……勝ちたくて、レースをしていました。
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そんな山本さんに筆者が初めて取材させてもらったのは、ヤマモトレーシングが鈴鹿NK1に取り組み始めた1994年。
第一印象は親しみやすい大阪のおっちゃんという感じでした。しかも、エンジンのこと、フレームのこと、バイクのことをわかりやすく教えてくれて、「さすがにTT-F1チャンピオン・コンストラクターは違うなぁ」と心を打たれたものです。
ファクトリーを見学させてもらうと、同行していた当時の上司(編集長)が、こんなふうに解説してくれました。
「ヤマモトはなぁ、精度と品質がずば抜けたマフラーメーカーなんだ」
マフラー&チャンバーに詳しく、主要なコンストラクターやアフターパーツメーカーに通じていた編集長の言葉ですから、余計に山本さんのモノづくりに興味が湧きました。
さらに続けて
「パイプに傷を付けず、これほど美しく曲げられるところはないんだよ。だからOEMメーカーとしても引く手あまた」
以来、22年間にわたって取材にうかがい、いろんな製品に試乗させてもらって、しみじみと感じるのは、「本当にお客さん想いなメーカー」だということです。
前述した精度と品質の高さも、立ちゴケ補修に速やかに対応してくれるのも、販売個数が見込めなくたって手を抜かずに作るのも、派手な見た目よりも本質的な機能を追求するのも……山本さんらしいモノづくり哲学によるものです。
だから、お客さんが長く愛用し、様々な知識を身に付けるほど、「いい買い物をしたこと」がわかってきます。
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人間関係にしても、来るものは拒まず、去る者は感謝して送り出す。うまく行った人は「よかったなぁ」と祝福し、困っている人には「なんとか力になろう」と手を差し伸べてくれる。他人の悪口は言いません。だから、人望が厚く、熱烈なファンが多いのでしょう。
結果的に、レーシングマシンも、マフラーも、パーツも、お客さんのほうから「作ってほしい」と頼んでくるケースがほとんどです。
そんなときに山本さんは、「何に困っているのか?」という根本的な原因に思いを巡らせて、「だったらこうしよう」と自らの知恵と経験を活かし、本当に機能的なものを作ってくれます。だから、それがまた、よく売れるのです。
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こんなふうに18歳から45年間にわたって会社を率いてきた山本さんは、経営を息子さんに譲り、理想のCB1300SF作りに打ち込んでいます。今こそチャンス! そう思って、伊賀上野にあるヤマモトレーシングに通い、いろいろなお話を聞かせていただきました。
TT-F1チャンピオン・コンストラクターとして一時代を築き、CB1300SFで鈴鹿8耐を沸かせ、ここにきて燃料噴射時代の新たな喜びを創造しようとしている山本英人さん。その言葉をひとつでも多く、みなさんにお届けしたいと思っています。
梶 浩之(バイクジャーナリスト/本稿著者)
《追伸》
山本さんは、よくこう言います。
「自分は普通の人間で、特別なところは何もないよ」
そうやって何も発信しないので、歯がゆくなって、本稿を書かせていただくことにしました。
取材を重ねていて、よくわかったのは、「山本さんが夢中になって作ったものほど、多くの人々の心を動かしてきた」ことです。
この先どうなるのか、不透明なことも多い時代ですが……信じた道をまっすぐに行けばいい!! そう、背中で語る山本さんの姿を、みなさんにも感じ取っていただけたら望外の喜びです。
では、山本さんとバイクの出会いから始めましょう。
→「ヤマモトレーシング物語|CB900Fで鈴鹿8耐へ」に続く