ヤマモトレーシング物語|記憶に残るSR500
《ぶっつけ本番でポール》
取引先の社長から「なんとかしたってや」と頼まれて手掛けたのが、ヤマハSR500(*9)のB.O.T.T.(バトル・オブ・ザ・ツイン)レーサーだ。
(*9)SR500=空冷4スト単気筒・499cc・32ps・1978-2000年
持ち込まれたのは、予選を通ったり、通らなかったりという状態のSR。これをどう料理したものか?
「アルミフレーム&シングルショックのほうがええに決まってるのに、当人は鉄フレーム&リア2本サスにこだわってなぁ」
仕方がないので、要望通りに仕上げたが、山本英人の気持ちはスッキリしなかった。
そこで、SRのエンジンを分けてもらい、アルミフレーム&リア1本サスのレーシングマシンを急きょ製作。1985年の「成人の日」に、筑波サーキットに殴り込みを掛けた。
なんの走行データもなかったため、ギヤレシオを探しながらのアタックだったが、見事にポールポジションを獲得!
「決勝は2位になってしもうて、悔しかったわぁ」
優勝したのはオレンジブルバードのSRレーサーだった。2位になったヤマモトレーシングの岩橋健一郎(*10)選手は「あれだけパワー差があったら仕方がない」と当時を振り返る。
(*10)岩橋健一郎選手=1985年ヤマモトレーシングからレースデビュー。以来、ヤマモトで走り続け、1990年全日本TT-F1チャンピオン。1991年にチームを離れ、NSR500を駆った。
逆に言えば、ストレートが速くないマシンで予選1位、決勝2位。この快挙がB.O.T.T.常連チームに与えた衝撃は大きかった。当時を知る人たちの間では、いまだにこのSRレーサーの話題が上るほどだ。
依頼されて仕上げた鉄フレーム&2本サスのマシンも「確か、4位か5位」に入賞。とても喜んでもらえたのが、山本英人もうれしかった。
《山本のフレームはなぜ速い?》
この快挙を支えたアルミフレームのポイントは何だろう?
「排気量・パワー・車重・タイヤがこれで、ココを走ると決まれば、だいたいの寸法が見えてくるんや。例えば、ホイールベースはこのくらいって。そうしたらエンジンはここに載せて、キャスターやトレールはこのくらいにして、っていう具合やね」
この考え方は、バイクメーカーも全く同じだ。ニューモデルの開発者インタビューに出席すると、こんな話をよく耳にする。
「1000ccクラスのスーパースポーツで、前後17インチタイヤなら、ホイールベースは1400mmくらい、キャスターは24~25度、トレールは95mmあたりって、だいたい決まってくるんです」
山本英人は、さらに続ける。
「ねじれ剛性のバランスも大事やね。どこをしっかりさせて、どこで抜いてやるのか?」
このSRレーサーのように、リアサスペンションの構造を2本から1本に変更する効果も絶大だ。
しかし、いずれの項目にも、確たる「正解」があるわけではない。具体的なチューニングノウハウは誰も教えてくれないし、教えてくれる学校もない。
「自分で考えて、やってみて、失敗したらこっち。それでもダメならあっちって、自分でレベルを上げていくしかないんや」
でも、それが面白かった。
「マフラーにしても、フレームにしても、自分の欲しいモノがなかったから、自分で作っただけのこと」
でも、それがよく売れた。
《SRX600で鈴鹿8耐に挑む》
SR500レーサーの成功に気をよくして、1985年の鈴鹿8耐にはヤマハSRX600(*11)で挑んだ。
(*11)SRX600=空冷4スト単気筒SOHC4バルブ608cc・42ps・1985-1991年
得意のアルミフレームとケーヒンFCR 2連キャブレターのおかげで「えらい速くなった」が、並み居る750cc勢と闘うのはやはり厳しかった。予選60位、決勝54位。
それでも、シングルファンの注目を一身に集め、このFCRキャブが一躍、人気パーツになったことは特筆しておきたい。
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