ヤマモトレーシング物語|1168人の頂点に立つ

ヤマモトレーシング物語|1168人の頂点に立つ

 《鈴鹿4耐でコースレコード》

1986年、ワークスレーサーRVF400の市販バージョンともいえるホンダVFR400R(*12)がデビューした。

(*12)VFR400R=水冷4ストV型4気筒DOHC4バルブ399cc・59ps・1986年(4月1日発売)-1994年

当時は、どのバイクメーカーも、有力チームにレース用のスペシャル仕様を供給するのが当たり前。レースの成績が、車両の販売に大きく影響したからだ。しかし、プライベーター―としてレースを戦うヤマモトレーシングに、そのマシンはない。

そこで、街のバイク屋さんからVFR400Rを購入。前年にレースデビューしたばかりの岩橋健一郎選手が、シェイクダウンを兼ねて4月の鈴鹿サンデーロードレースにエントリーしたら、マフラーを交換しただけの仕様で勝ってしまった。

もともと、山本英人が作ったオリジナルフレームのVF400Fを駆り、中山サーキット(岡山県和気町)で腕を磨いてきたのが岩橋選手。

「このVFはとても乗りやすかったですね。それに、フレームを開発していく中で “エンジン搭載位置やキャスターを変えると、走りがどう変わるのか” を学ばせてもらったのが大きかった。こうした経験が速さにつながっていったんだと思います」(岩橋選手談)

山本英人のフレームは、ライダーを育てる懐の深さも併せ持っていたのだ。

でも、目指していたのはそこではない。ノービスライダーの祭典・鈴鹿4時間耐久ロードレースのてっぺんに立つことだ。

言うのは簡単だが、この年のエントリーは589チーム、1168名。予選はわずかに1人20分しかなく、多くても周の間に、ベストタイムを出さなくてはならなかった。

1986年 鈴鹿4時間耐久ロードレース

↑1986年 鈴鹿4時間耐久ロードレースの雑誌記事(岩橋健一郎さんが作ったスクラップブックから抜粋・掲載誌不明)

結果は……ポールポジション! しかもコースレコードのおまけつき。

カムギアトレーン採用の新設計水冷エンジンを搭載し、鈴鹿4耐に向けて発売される前から、その速さが誌面をにぎわわせていたCBR400R(*13)を抑え切ったことに、誰もが度肝を抜かれた。

(*13)CBR400R=水冷4スト並列4気筒DOHC4バルブ399cc・59ps・1986年(7月15日発売)-1988年 *参考:鈴鹿4耐決勝は7月26日

手元にある当時のバイク雑誌には「もはや非力(?)なVFRで、鳴り物入りのCBR-RやFZRを抑えてのポール獲得に……(以下略)」と書かれている。

決勝はトップを独走していたものの、徐々に魔の手が忍び寄った。

耐久レースが初めての岩橋選手は、耐久用タイヤの使い方を知らなかったのだ。

気が付いたときには、リヤタイヤのトレッドラバーがなくなり、徐々に空気が漏れ出していた。チェッカーフラッグを受けたときの空気圧は、わずかに0.3kg/cm。よくしのいだものだ。

1986年 鈴鹿4耐 決勝リザルト(敬称略)

1位:ヨシムラGSX-R(高吉克朗/石上均・予選5位)

2位:モリワキCBR400R(江島徹朗/前田忠士・予選2位)

3位:SP忠男FZR400(石渡克成/福智学・予選16位)

4位:ヤマモトVFR(岩橋健一郎/石神克俊・予選1位)

ただ単に速いだけでは勝てないことを学んだ、貴重な経験だった。

実は、予選のコースレコードを「HRCに勝った!」と、とても誇らしく思っている男たちがいた。

ホンダの市販車を開発している本田技術研究所 朝霞研究所(現 二輪R&Dセンター)で、VFRを作り上げてきたスタッフたちだ。

まったくの市販車でポールポジションを奪い取り、並み居る有力チームに一泡吹かせたのだから、これほど痛快なことはない。

このように市販車開発を担う朝霞研究所と、レーシングマシン開発を担うHRC(ホンダ・レーシング)が、お互いにライバル心をむき出しにして切磋琢磨するところに、ホンダの強さがあるのだろう。

 

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