ヤマモトレーシング物語|特別昇格でTT-F1へ
《待ってました、RC30》
岩橋健一郎選手の速さに注目したHRCから「NSR250(F3仕様)に乗らないか」とのオファーが舞い込んだが、1日でも早くプロライダーになりたかった岩橋選手は特別昇格で「国際A級」に上がり、ホンダVFR750F(*14)で全日本TT-F1に挑むことを選んだ。山本英人も2スト車でレースをするつもりはなかったという。
(*14)VFR750F=水冷4ストV型4気筒DOHC4バルブ748cc・77ps・1986-1989年 ※TT-F1仕様は125ps
しかし「質感の高い大人のスポーツバイク」を開発コンセプトに掲げるVFR750Fで、4メーカーのワークスマシンや各社のレーサーレプリカ勢と闘うのは難しかった。
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転機が訪れたのは、シーズン終盤の8月31日だ。
この日、ホンダVFR750R(RC30)(*15)が発売されたことを受けて、参戦マシンをRC30にスイッチ。VFR750Fとは次元の違う速さに、岩橋選手も山本英人も驚いた。パワーもさることながら、フレームの進化が大きかったという。
(*15)VFR750R=水冷4ストV型4気筒DOHC4バルブ748cc・77ps・1987年・1000台限定
【参考】 熱き心で夢を創らん ~山中勲の開発ストーリー~ VFR750R
当時の資料をひも解くと、RC30の開発スタッフが目標にしていたのは「プライベートチームが無改造のRC30でワークス勢に割って入る」こと。
それを地で行くヤマモトレーシングは、朝霞研究所(ホンダの市販車開発を担う)のスタッフたちにも応援され、「打倒ワークス」の力をめきめきと付けていった。
ちなみにこの年、全日本TT-F1でワークスマシン以外が優勝したのは、大島正選手(*16)が駆るホンダCBR750(*17)の1回のみ。それほどワークスの壁は厚かった。
(*16)大島正選手=ノービス時代から頭角を現し、B級時代にはA級混走のTT-F3で無敵の強さを誇った。1988年鈴鹿200kmがA級初優勝。陽気で曲乗りがうまく、人気者だった。1999年もて耐のアクシデントで永眠。岩橋健一郎選手が憧れ、箕面の山でその背中を追い続けたライダーでもある。
(*17)CBR750スーパーエアロ=水冷4スト並列4気筒DOHC4バルブ・748cc・77ps・1987-1988年
《SB元年、世界相手に堂々の2位》
翌1988年シーズンは、周囲も目を見張るような活躍をし始めた。
「RC30に乗り換えたら、岩橋も急に速くなってなぁ。4メーカーのワークスマシンのどれかは、必ず負かしてたわ」
当時のバイク雑誌には、ワークスイーター の文字が躍る。
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この年から始まったスーパーバイク世界選手権・第5戦の菅生も記憶に残るレースだろう。
ヒート1はトップ争いに加わりながら電気系のトラブルでリタイヤしたが、ヒート2では2位に入賞。世界の強豪ライダーと互角に渡り合える実力を証明した。
リザルトにはM・ルッキネリ(ドゥカティ)、D・タルドッツィ(ビモータ)、F・マーケル(ホンダ)、G・グッドフェロー(スズキ)、M・ドゥーハン(ヤマハ)といった名前が並ぶのだから、岩橋選手の速さも本物だ。
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結局、このシーズンはプライベーター最上位のランキング6位を獲得し、翌年の活躍にいっそうの期待がかかった。
《雨の鈴鹿でA級初優勝》
迎えた1989年は、3月のマレーシアGPスーパーバイク、4月の菅生スーパーバイク選手権で優勝し、幸先の良いスタートを切った。
そして4月の全日本TT-F1鈴鹿では、雨の中をワークス勢よりも2秒以上速いラップタイムで駆け抜け、A級初優勝!
当時のバイク雑誌は
「大阪の改造屋魂がついにワークスを食ったゾ」
「かつてヨシムラ、モリワキが真っ向からメーカーと対していた時代を思い出させる胸のすく勝利だった」
と報じた。
あまりの成長ぶりに、残り3戦はワークスマシンRVF(鈴鹿8耐のガードナー/ドゥーハン用に作られた車両)を貸与されることになり、3位表彰台を1度獲得。年間ランキングは5位に上がった。
《困っている人には惜しみなく》
ところで、3月にマレーシア遠征した理由は何なのだろうか?
「ホンダに頼まれて、招待選手として行ったんや。向こうではRC30が全然、勝たれへんっていうから」
現地のマシンを見たら、セットアップが無茶苦茶だった。そこで、キャブレターやミッションの設定、水温の管理、サスセッティング、走行ラインまですべて教えた。
すると突然速くなって……いつも下位に沈んでいたライダーが、岩橋選手に続く2位に入賞。
「キャブレターセッティングの濃い薄いもわかってなかったんちゃうか? そのあたりも全部教えてなぁ。翌年はチャンピオンになったって、喜ばれたわ」
持っているものは、惜しみなく与える。
だから山本英人は周囲から応援され、チャンスが向こうからやって来るのだろう。
翌1990年には、本拠地を東大阪から伊賀上野に移した。その理由は、工作機械を設置できる広い工場がほしかったから。ただそれだけ。鈴鹿に近付くのも好都合だった。今も、ヤマモトレーシングはここにある。
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