ヤマモトレーシング物語|速さの秘密
《追いかけ続けているうちに》
なぜ、岩橋健一郎選手はそんなに速かったのだろうか?
その秘密を知りたくて、まずはバイクとの出会いからうかがってみた。
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16歳で原付(ヤマハMR50 *19)に乗り始め、17歳のときに中型免許を取って、大阪箕面の山をヤマハRZ350(*20)で走り込んだ。そこで出会ったのが大島正選手だった。
(*19)MR50=空冷2スト単気筒・49cc・6.0ps・1972-1981年
(*20)RZ350=水冷2スト並列2気筒・347cc・45ps・1981-1984年
「背骨に電気が通ったような衝撃を受けました」
速いのはもちろん、曲乗りがうまく、手足のようにバイクを扱う様子に度肝を抜かれたのだ。
その走りをフルコピーしようと、毎日のように大島選手の背中を追いかけ続けた。ここに速さの原点がある。
山本英人と知り合ったのは、ちょうどその頃。峠仲間が紹介してくれたという。
やがて山本英人が作ったオリジナルフレームのVF400Fで、中山サーキットのレースに出るようになる。ここで勝ちまくった。「3年間で30レースに出場し、20勝くらい」と、当時の雑誌インタビューに答えている。
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正式なデビューレースは1985年11月の鈴鹿サンデー(ホンダRS250R)。ここで優勝したのを皮切りに、1986年の鈴鹿4耐ポール、1987年の国際A級特別昇格&TT-F1参戦へと、一気に駆け上っていった。
1987年~1990年に、タイヤメーカーの開発テストを担当していたのも、岩橋選手の速さに磨きをかけた。タイヤとセットアップの知識を積み重ねながら、走って 走って 走り込んでいたからだ。
「頭のいい奴やからね。いろんなバイクで、いろんなサーキットを走ったのが、よかったんちゃうかな。怪我しないのも彼のいいところ」
箕面の山も中山サーキットもランオフエリアが限られ、路面もあまりよくなかった。だから、どんなに攻め込んでも90%まで!
岩橋選手は、何があっても回避できる「心の余裕」をつねに持ち続けていた。これが「めったに転ばないライダー」の基礎になっている。
『GRAN TURISMO』というドライブシミュレーターゲームで、「どうやったらラップタイムを縮められるのか?」を追求し続け、自分なりのサーキット攻略法(最速ラインの見つけ方)を作り上げていったことも、安定した速さを支えた。
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思えば、中山サーキット時代から1990年のTT-F1チャンピオン獲得まで、岩橋選手はヤマモトレーシングひと筋だ。なぜなのだろう?
「移籍する理由がありませんでした。今、改めて振り返ると、楽しいレースをしていたのは、山本さんだけだったと思います」
商売を優先し、販促効果が期待できないレースには出場しないチームも多かった中で、山本英人は純粋に「レース」を楽しんでいた。バイクと走りをよく見て、ライダーの話をよく聞いて、自分たちでよく考えて、作る。そして勝つことが、なによりも面白かったのだ。
人・モノ・金で絶対に太刀打ちできない、バイクメーカーの本気マシン(ワークスマシン)を、知恵と工夫で1台、そしてまた1台と負かしていくことが、なによりも楽しかったのだ。
「山本さんには、記録よりも記憶に残るライダーになれ。ドラマチックなレースをして、観客を楽しませろと言われましたね」
だからこそ、熱烈な岩橋ファン、ヤマモトレーシングファンが生まれた。それはメーカーのエンジニアも例外ではなかった。
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岩橋選手はヤマモトレーシングの良さをもうひとつ挙げる。
「ワークスチームよりも優れているところがあったんです」
例えば、ここをこうしたい、あそこをああしたいと伝えたら、次戦までにもっと優れたアイデアで対策されていたりする。このスピード感とノウハウの豊富さが、ワークスチームを上回っていたのだ。
それは、そうだろう。ヤマモトの生業は、モノづくりだ。しかも、自社一貫生産にこだわっているのだから、スタッフの知識と経験は幅広く、みんなのハートは熱く誇り高い。だって、日本のてっぺんのレースを、自分たちの作ったバイクで勝とうとしているのだから。
純粋にレースに打ち込んでいるライダーにとって、これほど居心地のいい環境もないだろう。
チームが採算を優先するあまり、走りたくても走れないライダーからしたら、夢のような体制だったのである。
ライダーが速いだけでも、チームがいいだけでも、チャンピオンにはなれない。その双方がガチッとかみ合ったのが1990年といえそうだ。
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