ヤマモトレーシング物語|CB900Fで鈴鹿8耐へ
《雑誌片手にカブチューン》
実家がクルマ屋さんから自転車屋さんに転業したのは、山本英人(敬称略・以下同)が中学2年生のときだった(1966年)。学校から帰ってくると、もらってきたホンダ・スーパーカブのエンジンをバラすのが日課。
「エンジンって、こうなってのや」
バイク雑誌を参考に、見よう見まねでチューニングに打ち込んでいた。
「ヤスリで削ったりしてなぁ」
以来、50年間、今日もまたエンジンを触り続けているのが山本英人だ。
*
17歳になると、カワサキA1(*2)でレースにのめり込む。愛車をトラックに積んで深夜に鈴鹿サーキットへ向かい、朝から練習、また練習。夜になると再びトラックに積んで、東大阪にある自宅に戻った。いま振り返れば、いい思い出だが……
(*2)カワサキ250A1=空冷2スト並列2気筒247cc・31ps・1966-1971年
「90ccにしておけばよかったんや、キットパーツがあったから。何もわからんと触ってるから、エンジンはつぶれるし、ぎょうさんお金はかかるし。本当にえらい目にあったわ(笑)」
そのかわり、バイクがよく売れた。レースをしていたおかげで、A1に興味を持つ人が集まってきたのだ。思い切って、自転車兼業からバイク専業に転換したのは「18歳か19歳のとき」だったという。
バイク屋さんを始めて以来、忙しくて鈴鹿から足は遠のいていたが……お客さんたちのほうから「鈴鹿に行こう!」と盛り上がって、サーキット通いが復活。徐々にお店が手狭になってきたので、大きな店舗に移転し、サラリーマンだったお兄さんをスタッフとして迎えた。山本英人が20歳のときだ。
「あの頃はZ2(*3)がぎょうさん売れたわ。もちろんA1もH1(*4)もね」
(*3)カワサキ750RS=空冷4スト並列4気筒DOHC2バルブ746cc・69ps・1973-1978年
(*4)カワサキ500SS=マッハ3:空冷2スト並列3気筒498.7cc・60ps・1969-1975年
《第1回 鈴鹿8耐が転機になって》
「1970年代後半に鈴鹿通い」と聞いたら、多くの方が『鈴鹿8時間耐久ロードレース』(鈴鹿8耐)を思い浮かべるだろう。
特に、1978年に開催された第1回大会は、プライベーターのヨシムラが優勝したことで、マスコミがこぞって このニュースを取り上げ、「どことなく停滞していた日本に元気を吹き込んだ」「ここからバイクブームが始まった」と、当時を知る人々はよく話す。
そんな記念すべき大会に、山本英人の姿もあった。某有名チームのメカニックとして参戦していたのだ。
ただし、山本の想いは伝わらなかった。
「そのマフラーじゃ擦るぞ。ここをこうしたほうが、もっとパワーが出るぞ!! って 言ってるのに、聞いてもらえなくてなぁ。ほんなら、自分でやるしかないわなぁ」
当時の鈴鹿8耐は「改造できる草レース」といった雰囲気で、エントリーの半数近くは2ストマシン。排気量も247cc(TZ)~1200cc(CBX)とバラエティに富んでいた。
では、何で参戦するのか?
その頃、山本英人の人生を決定づけるバイクが登場した。
ホンダCB900F(*5)だ。
(*5)ホンダCB900F=空冷4スト並列4気筒DOHC4バルブ901.8cc・95ps・1978-1984年
[参考] 熱き心で夢を創らん ~山中勲の開発ストーリー~ CB900F
山本はDOHC4バルブという最新メカニズムに魅せられて、さっそくレーシングマシンを製作。排気量を1000ccに拡大し、レース用カムシャフトとビッグバルブを組み合わせていた。
オリジナルフレームやアルミたたき出し燃料タンクまで製作していたというから驚く。
このときに伝説が生まれた。あのモナカ合わせのマフラーだ。
当時、CB-Fレーサーのマフラーといったら「直管」ばかり。それが好きになれなかった山本英人は、自らサイレンサー付きのレース用マフラーを作って走らせていた。
「そうしたら、このマフラーを譲ってほしいという人がいてなぁ。あらまぁ、売れんのや!! って……」
マフラーメーカーとしての幕が開いた瞬間だ。
誰の真似でもない、この「お弁当箱みたいな形」が斬新でカッコよかった。
*
オリジナルフレームを開発した理由も聞いてみよう。
「もともと街乗りのバイクやから、まっすぐ走れへん! ダウンチューブの片側がボルト止めになっているのも、あかんやろうってなってなぁ」
お客さんが持ち込む市販レーサー・ヤマハTZを見慣れた目からすると、
「このヘッドパイプの位置はおかしいやろ。キャスターも立てたほうがええなぁ。エンジンはもうちょっと前にやろう。剛性を上げるなら、ツインチューブにしたほうがええし……とやっていたら、格好が全く変わってしもうた(笑)」
一方の街乗りでは、愛車CB750F(*6)を900cc化。どうすればパワーが出るのかはCB900Fで十分に学んでいたし、そのためのパーツも開発していた。これがまた、よく売れた。
(*6)ホンダCB750F=空冷4スト並列4気筒DOHC4バルブ748.7cc・68ps・1979-1984年
[参考] 熱き心で夢を創らん ~山中勲の開発ストーリー~ CB750F
ただし、「認証工場やから、そのままだとやりにくくてなぁ」
というわけで、バイク屋からアフターパーツメーカーに転業。1980年、『ヤマモトエンジニアリング』として新たな一歩を踏み出した。
当時の一番人気は、もちろんCB750Fのマフラー。加えて、鈴鹿8耐や鈴鹿4耐のレーシングマシンを作ってほしいという依頼も多かった。そのため自らCB900F改で鈴鹿8耐に参戦できたのは1983年。これを区切りに、レース活動はVF750F(*7)へと移っていった。
(*7)ホンダVF750F=水冷4ストV型4気筒DOHC4バルブ748cc・72ps(輸出仕様84ps)・1982-1985年
【参考】 熱き心で夢を創らん ~山中勲の開発ストーリー~ VF750F
「いま思えば、CB-Fのエンジンは大変やったなぁ」
1次減速の取り出しがチェーンだったため、どうしても重く、幅が広くならざるを得ない。ACG(ACジェネレーター・交流発電機)が左に飛び出していることも、バンク角を浅くした。
「その点で、カワサキZ系のエンジンはよかったけど……」
クランクウェブにギヤを切って、ここから動力を取り出すところは現代的だったが、クランクベアリングがニードルローラーなのはいただけなかった。パワーを出そうとすると、クランクが振れてしまうからだ。
VFのエンジンは、こうした問題をすべてクリアしていた。
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